

2種類の大人がいると上手くいく
という言葉があるようです。
例えば、
超えなくてはならないハードルの前で
どうしてもそれを超えられないでいる
苦しみの中にある子どもの心を救い導く
ためにはどのような働きかけができる
でしょうか。

今回は『 教育 』という言葉の意味から
考えてみたいと思います。
『教育』の語源
まず、
『 教育 』という言葉の語源を調べてみました。
「教」という漢字の左側、
つまり偏(へん)の部分は
日本の神社建築に代表される神聖な建物(校舎)と
その下で学ぶ子弟を表し、
右側の旁(つくり)は
鞭(むち)を示しています。
神聖な学舎で学ぶ子弟たちを
高徳の長老たちが叱咤激励
しながら鞭撻すること、
それが教えるの意味となったそうです。
親の姿。
「育」という漢字の上の部分は
子を逆さまにした形で、
下の月は人間の肉体を示すそうです。
つまり
人間の子供が生れ落ちる姿を表しています。
その形はそのまま
子を産み育てるという意味を持ちます。
[ 白川 静,『常用字解』, 平凡社 (2003) より]
もともとは大きな家族がいくつも集まった
村全体、
あるいは地域共同体のメンバーである
大人達全員が協力して
子供たちの教育というものを
捉えていたようです。
父親たちは「教」を
母親たちが「育」を主に担ったと考えられます。
子の姿。
『 教育 』を子供達から見れば
『 学習 』ということになります。
「学」という字は、
上で示した「教」の偏(へん)の形の
もとになった漢字です。
つまり、
神聖な校舎で学ぶ子供たちを表しています。
「習」の下の「白」の部分は、
祝詞(のりと:神への祈りの文)を入れる器に
祝詞が納められている形だそうです。
その器の上を羽を使って摺(す)る、
という一定の行為を繰り返し重ねること
を習うといい、
「習う」とは慣れるという意味に
つながっています。
[ 白川 静,『常用字解』, 平凡社 (2003) より]
漢字の成り立ちから見ると、
何かを習うということは
祈りに通じる事でもあるようですね。
そもそも学習とは
自分だけのためだけにする行為
ではないのかもしれません。
そのことを教えることもまた
教育する側の務めであったのでしょう。
親子に共通する心。
漢字の語源を眺めてみると、
「教育」する側も
「学習」する側も
そこが神聖な場であることを意識していることが
前提となっているように思われます。
そのような場所であることを意識していれば、
学ぶ側の心構えも変わり、
真摯な姿が立ち現れてくるのでしょう。
そして、
「教育」する側には
2 種類の人間が必要なことも見えてきます。
まず、
正しいことを正しいと教え示す「導く人」です。
その人は、
絶対に曲げることができない自然の真理を
最後まで示し続けてくれる人です。
これが生きる指標となります。
人間誰もが持っている心の弱さを忘れない。
もう一方で、
その真理へ子供がたどり着くように
途中の困難や厳しさの中で見せる未熟さに
多少の目をつむり、
どこまでも寄り添い、
最後まで励ます「育む人」も必要でしょう。
人生を貫徹する
厳しい自然の真理の前で
1 人の子供が抱える多様な反応を包み込み
あらゆる「教」と「育」をこなすことは
一人の人間で難しくとも、
家族やその他の人達の温かい協力や、
自然という偉大な環境の力を借りることで
達成できるのかもしれません。
「教育」の語源|《 まとめ 》

教育には、
2種類の愛が求められています。
私達人間が生きる前提となっている
自然の法則としての真理は
変えることのできない絶対的なものであり、
その厳しさを教え挑戦させることは
生きていく力をつけるために
欠かすことのできない愛です。
そして、
人間誰もが持っている心の弱さ
というものを忘れずに
忍耐強く子供の心を救いながら
真理にたどり着くまでの道に
そっと明かりを灯し続けることもまた
「教育」には必要な愛なのでしょう。

多くの方に導かれ、育まれ、
なんとかここまで生きてこれたと
何かある度に
謙虚な気持ちを取り戻す自分がいます。
学校という場だけでなく、
家庭においても
社会においても
「教育」というのは
あらゆるところで行われていて、
その実質は時間や手間をかけて行われている
本当に神聖で奥深いものであると
改めて感じます。
今回のテーマは『教育』です。