J.M.W.ターナー|天才水彩画家の重色発見と英国絵画の変遷
こんにちは、NORi です。
水彩画は19世紀のイギリスで花開き、その最高峰に至りました。その流れの頂点にいたのが、天才画家ターナーでした。
ターナーはイギリスロマン派絵画の代表的な油絵画家として有名ですが、その功績を下支えしたと言われるのがターナーの水彩画における技法の発見です。今回はそんなイギリス絵画の巨匠J.M.ウィリアム・ターナーの水彩画と、ターナーが発見した透明水彩の技法についてご紹介してみようと思います。
NORi
目次
ターナーと水彩画|日本に水彩画がやってきた!
私は本屋さんで水彩画の本を探して
眺めるのが大好きなのですが、
最近ではほとんどの本屋さんに
透明水彩の技法書が並ぶようになって
透明水彩の人気の高さを感じます。
それでも
絵画展などを観に行くと
作品のほとんどは油絵ですね。
日本における水彩画の歴史を
紐解いてみると、
初めて水彩画が日本で紹介されたのは
幕末だそうです。
明治時代の中頃から大正にかけて
日本で水彩画が爆発的に広がって、
このときの水彩画というのが
いわゆる透明水彩の作品だったようです。
透明水彩がつなぐ日本とイギリス
透明水彩画は
日本で爆発的な人気を誇り、
画家だけでなく
多くの知識人と呼ばれる人たちも
外へ出かけては
水彩スケッチを楽しんだと言われています。
なんだか
楽しそうですね。
水彩画独特の味わいというものを
愛する気質を持った日本人には
水彩画という芸術を生んだ
イギリスとの共通点があるのかもしれません。
自然の四季に恵まれ
海に囲まれ
潤いのある大気に包まれた
気候や風土といった環境が
透明水彩画と親和性の高い
国民性や気質を育てる根底にある
と考えることもできるかもしれませんね。
透明感あふれる
みずみずしい透明水彩画には
気品すら感じる清らかさがあります。
ターナーと水彩画|水彩画の元祖デューラー
一般的に「水彩画」というと
顔料を水で溶かして描く絵と
考えられていますが、
そこには
不透明水彩と透明水彩という
2種類の描法があります。
「透明水彩」は
本来の絵の具の透明性を活かした描法で、
たっぷりの水で十分に絵の具を溶かし
紙の白さが透けて見えるほどに
薄く色を塗ることで
その濃淡やにじみなどによって
瑞々しく優美な色彩の重なり合いを
表現することができます。
一方で、
不透明水彩は
絵の具に白を混ぜることで
絵の具を不透明にしてから
塗り重ねていく描法となります。
厚塗りや
上から異なる色を重ねることができ
最終的には一番上の層の絵の具が
作品となります。
この意味では
不透明水彩はどちらかというと
油絵に似た描法であると言えます。
したがって、
水彩画は本来
絵の具の透明性を活かし
薄く色を塗り重ねる
「透明水彩」の技法を土台としたもの
ということができます。
この透明感あふれる
近代の水彩画ともいえる「透明水彩」
を使った作品が
16世紀になって突然現れます。
それは
ドイツの版画家、数学者でもあった
ルネサンス期の画家、デューラーが描いた
風景水彩画でした。
アルブレヒト・デューラー
(Albrecht Dürer, 1471-1528)
水彩画の巨匠というと、
どのような画家の名前を挙げますか?
ここからは
水彩画の生みの親とも言える
デューラーについて書いてみようと思います!
デューラーは
「風景画」を得意としていました。
しかし
その時代には、
風景画は西洋絵画における序列の中でも
最下位に位置付けられるものでした。
その背景には
中世のキリスト教的な世界観が
影響していました。
絵画といえば、
聖書や神話に基づく
宗教絵画や歴史画、
あるいは肖像画
といったものだけで、
このような神聖なものを
絵画の中にいかに含めていくかが
絵画の価値を決めていました。
つまり
ありのままの自然の姿など
全く価値のないものだったのです。
驚くべきことに
そんな時代にデューラーは
全く宗教的な要素もなく
ありのままの風景から美を抽出し
表現するという「純粋な風景画」を
誕生させました。
デューラーは
多くの油絵や銅版画を残していますが
水彩画は油絵の間に制作していたようです。
それまでの水彩画の歴史は
水彩画といえども
不透明性のある厚塗りのような
塗り方でした。
しかし
デューラーの水彩画は
薄く溶いた絵の具で
紙の白さを活かしながら
にじみやぼかしなどの技術を利用した
従来の水彩技法では類を見ない
新しい『透明水彩』の技法で
描かれたものでした。
ですが、
同時代の画家達は誰一人として
この新しい透明水彩の価値を
見出す人はいませんでした。
偉大なデューラーの
圧倒的な影響力をもってしても
水彩画の発展はここで一旦
途絶えることとなりました。
デューラーの作品に触れる
私はデューラーの水彩画に感動して
カレンダーを買ったことがあります。
今回ご紹介した植物の絵も
私のお気に入りの一枚です。
よく見ると
葉っぱがとてもリアルに
表現されていますね。
葉っぱの凹凸は
緑色の絵の具を「ぼかし」ながら
グラデーションを作って
塗ったのかもしれません。
また、
土の柔らかさは
水彩らしい「にじみ」で
表現されているように見えます。
細部まで本当に見事な水彩画ですね!
それから
ところどころに不透明(gouache)な
濃い目のコバルトグリーンのような
緑色がアクセントになっていますね。
最後に上から塗り重ねたのでしょうか。
瑞々しい透明水彩に
力強い不透明水彩をアクセントに使う事で、
メリハリとリズムが生まれていますね。
素晴らしいです。
身近な草花を
美しいと感じる純粋な想いと、
その美しさをなんとしても絵にしたい
という情熱があってこその作品
だと感じました。
こんな風に
デューラーの作品を拡大して
じっくり見ることができるなんて、
凄い時代ですね。
イギリスで花咲く水彩画
デューラーと同じ時代
オランダでも自然を描写する
「風景画」が誕生します。
このオランダでの風景画の発展が
水彩画を本格的な絵画へと
結び付けていきます。
デューラーの時代のように
水彩は16世紀の頃から
油絵の下絵として
ドイツやオランダの画家達が
利用していました。
また、
鉛筆などで描かれた素描にも
その上から雰囲気を出すために
薄く色付けをする程度の淡彩用として
水彩が使われていたのです。
しかしその段階での水彩画というのは
いまだ西洋絵画史において
独立できるほどの絵画形式としては
認められるものではありませんでした。
その後、
水彩画は
19世紀のイギリスという国で花開き
その最高峰に至ります。
その流れの頂点にいたのが
孤高の天才ターナーです。
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
(Joseph Mallord William Turner, 1775-1851)
イギリスと水彩画の関わりは
17世紀あたりから始まった
と考えられています。
その頃のイギリスは
目覚ましい発展を見せ
徐々に『誇り高き大英帝国』を
築き上げていきました。
この頃から
オランダより流入した水彩画が
イギリスの勃興を支えてきた
堅実な市民階層によって支持されて
国内に浸透していきます。
水彩画を育てたイギリス
どの国も達成できなかった
高い芸術性をもつ水彩画という
独自の絵画様式を
イギリスが完成させたのは
19世紀後半に至るまでの
約2世紀半の間のことでした。
「透明水彩」という近代水彩画の誕生は
風景画の確立と深く関わっています。
17世紀から18世紀前半にかけて
オランダを源流にした
写実的風景画が人気を博した後、
イギリスの発展に伴って
イタリアを源流とするロマン主義的な
美的感覚や印象を重視する風景画の流れが
混ざり合うことになります。
この2つの風景画の流れが
互いに刺激し合い、影響し合いながら
19世紀の初めに
イギリス水彩画を頂点へと導きます。
絵の具の乾燥に大変時間がかかる
油絵のスタイルでは
その絵の具の不透明性を活かし
室内でじっくりと時間をかけて
厚塗りや修正塗りを繰り返しながら
理想を追求した
大作を制作することができる一方で、
絵の具の乾燥時間が短い
水彩のスタイルは
野外スケッチには適していました。
現実に目の前にある美を
そのまま忠実に写し取るといった表現は
水彩画の方が適していることになります。
ありのままの自然の美を
そのまま写し取ろうとする
謙虚な姿勢を持った
イギリスの土壌の中で初めて
水彩画は
写実的風景画として
油絵から独立した絵画様式として
認められるまでに高められていきます。
ありのままの自然から
美しさの源泉を感じとる
イギリス人の感性は
ロマン主義のエッセンスを融合しつつも
絵画の主とする自然観察に有利な
水彩画の技法を極める方向へと
進んでいきます。
このように
世界に誇るべき芸術的遺産を
築き上げたイギリスの歴史こそが
『水彩画といえばイギリスが本場』
と言われる所以です。
そして
このイギリスの水彩画を
世界の最高峰にまで一気に導いた
中心的な存在こそが
ターナー、その人です。
これ以降の水彩画は
油絵にも劣らぬ存在感を持った
近代水彩画の完成へと向かっていきます。
ターナーと水彩画|ターナーの生い立ちと画家になるまで
ターナーはロンドンの下町
コヴェント・ガーデンで生まれます。
精神分裂症を患った母親と
理髪店を営む父親との
貧しい家庭環境の中で
ターナーは少年時代を過ごします。
少年時代のターナーは
早くも絵画への興味を示していて、
父親は自慢の息子を
安い月謝の画塾に通わせたりしています。
ターナーが14歳の時
彼の絵を見て感心した牧師の薦めで
ロイヤル・アカデミーの付属学校に入学し、
風景画家トーマス・モルトンと出逢います。
トーマス・モルトン(父)
(Thomas Malton the elder, 1726-1801)
※ 同じ名前の息子がいます。
モルトンは
建物と街路を忠実に描写する
風景画を専門とする画家で、
「透視図法に関する論文」
を出版しています(1775年)。
ターナーは
モルトンから透視図法を学び、
1790年には
「アーキビショップ寺院の光景」
というタイトルの水彩画を
15歳で初めてロイヤル・アカデミーに
出品しています。
その七年後、
22歳で初めて油彩画を出品し、
24歳の若さで
ロイヤル・アカデミー準会員となります。
写実的風景画の7年間の修行
ターナーは
初めて水彩画を出品してから
油彩画を描くまで7年間を要しています。
ターナーは水彩画を初出品した次の年、
16歳で初めて写生旅行に出かけます。
旅の目的はひたすら
自然の事物の有様を描写し尽くせる力を
養うこと。
ターナーは目に映る風景を
常に持ち歩いていたという
大小のスケッチブック2冊に
ひたすら描き留めていきました。
森や川、空や雲など
自然の有り様を正確に写実的に描こうと
鉛筆を走らせ、
時には水彩で淡彩をつけています。
この夏の写生旅行は
なんと70歳になるまで
毎年続いたそうです。
驚くべき精神力と情熱です。
このターナーの写生旅行の習慣は有名で、
ほぼ最初の10年間で
イギリスとウェールズの有名な場所は
全て巡ったと言われています。
ターナーの描いた
凄まじい量のスケッチブックが
今も残されていて、
その当時の
なによりも自然の事象を正確に
写実的に学びとろうとする
ターナーの不屈の意思がみなぎった
記録となっています。
写生をもとに描かれた
ターナーの水彩画には
自然の静寂さとともに
おおらかな光と影によって
景色から伝わる『空気』感までもが
表現されていきます。
油絵風景画家ターナー誕生
ターナーはこれらの
忠実な描写的風景画の修行と同時に
優れた先人画家達が描いた
古代ローマからの伝統的な
ロマン主義を取り入れた水彩風景画
にも触れていきます。
そこには
色調の濃淡や色彩豊かな表現があり、
目に見えない『空気』感に重点を置いた
情緒的な動きのあるもので
当時の水彩画としては画期的なものでした。
これらの絵画の模写を通して
ロマン主義の精神をも吸収しながら
7年の修行を経て
1796年、ターナーは22歳で
初めて油彩画を出品します。
自然の荒々しい海の姿と対比するように
小さく描かれた人間が
緻密な描写で徹底して描かれています。
ターナーは
光と水の表現に成功し、
海の風景画を描く油絵画家として
地位を確立しながら
水彩画よりも
油絵で出品を重ねていきます。
ターナーの評価は急上昇していき、
24歳の若さで
ロイヤル・アカデミー準会員
そして1802年には
わずか27歳という異例の早さで
ロイヤル・アカデミー正会員に
推挙されます。
ターナーの描く風景画は
写実的風景画でありながらも
無味乾燥なものではなく、
ロマン主義的な精神を引き継ぐ
ドラマチックな主題を持った
「崇高な」新しい風景画への展開が見えます。
ターナーと水彩画|ターナー27歳の転機
そんなターナーにとって転機となったのは
27歳で正会員となった同じ年の1802年に
初めて海を渡った旅でした。
名誉あるロイヤル・アカデミー正会員に
選ばれたターナーは
その喜びを祝うかのように
パリ、そしてスイスの旅に出掛けます。
初めて見るアルプスの山並みは高く険しく、
そしてその標高差を一気に下っていく
ライン川の流れは非常に激しいものでした。
そこには
ただひれ伏すばかりの
恐ろしくも偉大な自然の姿がありました。
まさに人智を超えた自然の力を
目の当たりにしたターナーは
これ以降、
猛威をふるう激しい自然の姿と対峙する
人間の闘いを主題にした
激しくも感動的なロマン主義絵画を
60歳まで描き続けることになります。
これらのテーマに沿った作品は
油絵によって描かれました。
その一方で、
相変わらず写生旅行に出かけては
素描や水彩画によって
ひたすら自然を正確に写実する修行を
続けます。
激しく劇的な油絵のロマン主義絵画と、
何の変哲もない
穏やかな自然の静けさに包まれる水彩画。
この両極端な絵画様式が
ターナーの中で同居し、
芸術家としての幅の広さや奥行きを
育んでいったのかもしれません。
44歳での第1回ヴェニス旅行
1819年、44歳になったターナーは
長年の憧れの地、イタリアへ向かいます。
ナポレオン戦争などの影響で
実現できずにいたものでした。
水の都ヴェニスの風景は
ターナーをすっかり虜にします。
溢れんばかりの明るい陽射しは
自然の景色や街並み、
運河の流れや水面に反射して
町全体をキラキラと輝かせていました。
対象がどこかはっきりしない
光、空気、水といった動的な要素と
崇高なロマン主義精神とが共鳴し、
長年求めていたものが
現実となって目の前に現れ出た感動が
ターナーを一気に包み込みました。
ターナーがここで得た
光と色彩の構想は
この後、10年以上の長い時間をかけて
技法の成熟を図る研究が続きます。
ターナーと水彩画|光と色彩の水彩画家の誕生
1830年頃、ターナーは50代半ばで
第二回目のヴェニス旅行を計画します。
すでに第1回目の旅(1819年)で
ターナーはヴェニスの町の輝きに
すっかり魅了され、
それ以来
光と色彩の印象をいかに描くかという
大きなテーマに取り組み
10年以上の歳月をかけて
その構想を温めていたと言われています。
そして2度目のヴェニス旅行を
決行するのです。
紺碧の空の下に広がる
イタリアの明るい陽の光と
様々な色彩にあふれる街並みが
目に飛び込んできたとき、
長年の構想がはっきりとした形となって
ターナーの脳裏に結実していきました。
ヴェニスの光と色彩にあふれる光景は
ターナーを新しい絵画制作へと
駆り立てました。
それまでは
油絵によって激しい風景画を描きながらも
水彩画では比較的穏やかな自然描写を
貫いてたターナーでしたが、
ここへきて水彩画に変化が現れます。
この旅の後、
ターナーの水彩画は
これまでずっと貫かれてきた
写実的な風景画の要素はほとんど消え、
幻のように眩しいほどに輝く
光そのものを実在として表現した
水彩画を生み出します。
その水彩画は、
純粋な発色の鮮やかさと
豊かな色相が彩られています。
たっぷりの水を使って
色彩の濃淡や調子を
細かくコントロールしながら
色を重ねたり
洗い出しによって
自由自在に水彩技法を操り
目の前の現実の風景を
刻々と変化してゆく『視覚的な経験』として
その象徴的な光や空気、水といった要素を
絵画へと昇華していきました。
ターナーが晩年に至り
新しく生み出した世界というのが
この光と色彩が融合する水彩画
だったのです。
このような
光と色彩を追求した作品には
水彩画を基に
油絵へとして仕上げた作品も
多くあります。
ターナーの
光と色彩に溢れた絵画は
もはや写実的な形状は消え
画面いっぱいに広がる明るい色彩と
空気感が
私達の視覚的経験として
深く印象づけられていきます。
ターナーは
フランス印象派の先駆者と
言われています。
ターナーと水彩画|透明水彩重色技法の発見
ターナーはそれまでの
目に見える事物の集積としての
写実的な構造を主張する
陰影の彩色を止め、
最初から固有の色で事物を直接表現する
方法をとります。
これは
水彩画の技法の歴史においては
画期的なことでした。
これによってさらに
本来の水彩絵の具の特徴である
透明性を活かした『重色』の技法を
ターナーは発見します。
『重色』の技法というのは
たっぷりの水を使って
絵の具を充分に溶かし、
薄く溶いた絵の具を塗った後に
完全に乾かしてから
さらに色を塗り重ねることで
上の層の色と
下の層の色とか立体的に反映し合い
深みのある繊細な色彩を
表現することができます。
これは
油絵などキャンパスにしっかりと
絵の具を乗せていくことで
徐々に絵を構築していく
不透明性の絵の具ならではの技法とは違って、
水彩絵の具の透明性を活かして
水で薄く溶いた絵の具の濃淡によって
紙の白さが透けて見える効果を使い
明るい画面を保持しながら
柔らかく豊かな色彩が何層にも重なる
グラデーションの美しさが映える
透明水彩独特の技法です。
『重色』の発見など
ターナーの水彩技法は
実際にはターナーと共に学んだ
ガーディンとの共同で発見したものだと
言われています。
トーマス・ガーディン
(Thomas Girtin, 1775-1802)
ガーディンとターナーは同じ年に生まれ
ともにイギリス水彩画に多大な影響を与えた
天才同士でした。
ガーディンは若くして亡くなりますが、
生前から多くの後継者が彼の元に集まり
ほとんどのイギリスの水彩画家は
ガーディンの影響を受けたと言われています。
ターナーと水彩画|ターナー水彩絵の具について
画材メーカーや画材ブランドの名前には
著名な画家の名前が冠されることがあります。
オランダの画材メーカー
『ロイヤルターレンス』には
オランダを代表する画家
レンブラント、ゴッホの名前がついた
ブランドがあります。
イギリスの画材メーカー
『ウィンザー&ニュートン』には
イギリスの水彩画家
ジョン・セル・コットマンの名前の
ブランドがあります。
そんな中で
『ターナー色彩』という名前の
絵の具があります。
実は日本のメーカーです。
このページで紹介してきた
ウィリアム・ターナーの名前から
来ているのかなと思い調べてみると、
やはりそうでした。
『社名は、創業者・松村健一氏が英国のロマン派の巨匠ウィリアム・ターナーのファンだったことから名付けられた』
― ターナー色彩株式会社|特集記事より
ターナーと水彩画|まとめ
- 近代の水彩とも言える透明水彩は、風景画の発展とともにイギリスで花開きました。
- 天才風景画家ターナーは、明るい陽射しに包まれた水の都ヴェニスの景色に魅かれて、10年以上の歳月を費やし光と色彩を表現する技法を磨きました。
- 重色の技法は同じ年に生まれた二人の天才画家ターナーとガーディンによって発見されたものです。
ターナーが16歳から70歳になるまで夏の写生旅行を欠かさなかったというエピソードは、若い頃の作品の圧倒的な写実的描写力を裏付けるだけでなく、晩年の、自然のあらゆる形が光と色彩に溶け込んでいく画風の中にもターナーの観測者としての視点を感じさせますね。
NORi
参考図書
- 斎藤 泰三 『英国の水彩画』(彩流社)
- 藤田 治彦 『ターナー 近代絵画に先駆けたイギリス風景画の巨匠の世界』(六耀社)