《美しさとはなにか》真善美への入口 ~隠れた法則を垣間見る~


こんにちは、NORi です。

今回のテーマは
『美しさとはなにか』です。

私達が『美』を感じるのは
何故なのでしょうか。

多くの人が共通して感じる
普遍的な『美』は確かにあって、

そこから私達は
人生を豊かに生きるための法則
垣間見るのではないでしょうか。

今回はそんな『美』という言葉の
意味を考えてみたいと思います
 

美しさとはなにか|『美』の語源


『美』という漢字には
どのような意味があるのでしょうか。

漢字の成り立ちについて
少し調べてみました。
 

「美」という漢字は
「羊」の姿から来ているようです。

羊はもともと日本にはいなかったようですが、
推古天皇七年(599 年)に
ラクダやロバなどと一緒に二頭の羊が
百済(くだら)から輸入されたと
『日本書記』に記されているそうです。
 

中国では、羊は
『どうぞ私達に幸せをお与えください』
との祈りを込めて天に供えられたといいます。

ニュージーランドやオーストラリアなど
羊が人間の生活を支えてくれる地域も多く、

成熟した羊の美しさが「美」という文字に
なったと考えられています。

 

神に捧げるための
美しく完全なる生き物の象徴が
羊でした。

[ 白川 静,『常用字解』, 平凡社 (2003) より]

 

昔の人は、
自分達の命を根源的に支えている
偉大な自然の働きというものが脈々と
途切れることなく自分達に降り注いでいる
普遍的な事実に気づき、

神への感謝とともに、自分達の大切なものを
お供えする習慣を生み出しました。
 

その習慣を通して、
関わる全ての人に
その神聖な心を伝え育もうとしました。

そのための象徴が羊(美)でありました。
 

人間に崇高な精神の働きを生みだすもの、
それが「美」の役割だと考えられます。

 

美しさとはなにか|『真・善・美』について


人間はいつしか、自らも【美しく生きたい】
と願うようになりました。

古くは、人間の働きは「肉体」と「精神
の2つに分けて考えられていましたが、
その後、古代ギリシアの哲学者ソクラテス
(Socrates, B.C.469-399)の『知徳一体』
という考えをはじめとして、

ドイツの哲学者カント(Immanuel Kant,
1724-1804)などが感情の働きを提唱し、
人間の「精神」の働きは『(知識)』
(道徳的善を行う意志)』『(感情)』
の 3 つに全て含まれており、この 3つが
統合されて人間の精神の働きが完全となる

と考えられるようになっていきました。
 

この完全なる『知』『意』『情』を
獲得するために必要になるのが、
『真』『善』『美』です

 

』とは、人間を含む森羅万象・この世の
全てのありのままの姿、性質や成り立ち、
自然の法則などの真理を指します。

真理を深く研究した者が
伝え残した学問もまた『真』です

私達は、
その『真』に繰り返し触れることによって
本物の『知(知識)』を獲得することができます

 

』とは、
真理に適合するための生き方の指標であり、

それを体得した者が
伝え残した倫理・道徳もまた『善』です

私達は
その『善』に繰り返し触れることにより
粘り強い『意(道徳的善を行う意志)』を獲得することができます

 

』とは、普段目には見えない真理に
気づかせてくれる象徴であり、

真理を捉える感性を鍛錬した者が
伝え残した神事・芸術もまた『美』です

私達は
その『美』に繰り返し触れることよって、
自我を越えた畏敬の念を育まれ
健全な『情(感情)』を獲得する事ができる

という関係になっているようです。
 

清く正しく美しく?

もう少し身近な言い回しに
清く、正しく、美しく―
という言葉を聞くことがありますね。
 

この言葉は、
厳しさと穏やかさを併せ持つ
自律した人間の理想の姿を
表しているようにも感じます。

そもそも「清く」
とはなんでしょうか。
 

「清」という漢字には
「青」という字が含まれていますが、

その色調が
透き通った、澄みわたる水のように
静かなものを感じさせることから

人の性質や心情などについても
「きよらか、あきらか」
の意味を持つようになったようです。

[ 白川 静,『常用字解』, 平凡社 (2003) より]

 

もし私たちが
自然の法則に従って生きる
人間としての正しい生き方ができれば、

その生き方は澄み渡る水のように明らかで
清らかに見えるのかもしれません。
 

自然の法則に沿った正しい生き方とは
どんな状態であっても明らかにできる
「たくましさ」を育みながら
進んでいくものなのかもしれません。
 

それが
自然の法則に沿った清らかさ
ということなのでしょうか。
 

他人の人生の豊かさをもたらす生き方へ。

清く、正しく、美しく―

このときの正しさとは、
相手によって、あるいは立場によって
コロコロ変わってしまうような
相対的な正義ではなく、

生物としての
普遍的な根本原理に沿ったもの
を示していると思われます。
 

それは必然的に
自他の命を維持し育む豊かさに通じる
「美」しい生き方であって、

自分のためだけではないことが分かります。
 

何かのきっかけで
自分個人の正義に囚われて
自分のことで一杯いっぱいになってしまう
といったことは沢山あって、

自分自身の姿を
とても危ういなと感じます。
 

そんなときの正しさは
相手や社会とのつながりを豊かに導く
普遍的な正義ではなく
独善的で

穴があったら
隠れてしまいたくなるような
恥ずかしさが漂います。
 

そんな中で、
人間誰もが持っている
清く、正しく、美しく「生きようとする力」
を掘り起こすことができたら
本当に素晴らしいことだなと感じます。

そんな底力を自分も持っているのだと
気づかせてくれる
美しい自然の風景や親しい人達の温かい笑顔
に囲まれていることに
心から感謝の気持ちが湧いてきます。

 

美しさとはなにか|『美』と『直感』


例えば、

太陽が昇る瞬間に
私達を包み込むあの光のように、

美しい風景の前で
思わず涙が流れるのは何故なのでしょうか。

 

その理由を
完全に説明することは

私達人間にはできないのかもしれません。
 

『美しい』と感じるかどうかは人による
ということもある一方で、

誰もが心の底から感動するような
もっと根源的で普遍的な『美』
というものもあるのではないかと感じます。
 

「直感」と「ひらめき」の違い。

私たちは普遍的な『美』を
直感的に感じ取っているのではないでしょうか。

『直感』( Intuition ) というのは、
小脳を経由した瞬間的に感じる思考
だと言われています。
 

『直感』と似た言葉に、
『ひらめき』がありますね。

この 2 つの言葉は
意味が異なるようです。
 

『ひらめき』( Inspiration )
大脳を経由する思考のことで、

理論的な理由付けを認識できる場合
を指すそうです。
 

クイズなどで答えが『ひらめいた!』
というのは、

それがどうして正解であるかを
理論的に説明できた瞬間が訪れた

ということになります。
 

一方で、
直感というのは
論理の大脳を使わないため、
なぜそう感じるのか、
その瞬間には論理的な説明ができない
ようです。

“なんとなく、
理由は説明できないけれど、
自分はそう感じる。”

というようなものが『直感』
ということになります。
 

圧倒的な『美』を前に
私達は言葉を無くします。

もはや『美』を説明する言葉を
私達は持っていないのかもしれません。
 

直感は
私達の積み重ねた経験によって
培われる複雑な能力のようです。
 

美しさとはなにか|世界遺産『富士山』

拝み、その雄大さと優美さを、詠う。

私達、日本人にとって
馴染みのある『美の象徴』というと

富士山が挙げられるのではないでしょうか。
 

自然の恵みをもたらし
昔から噴火を繰り返してきた
富士山。
 

その雄大な姿を前にした人々は
畏敬の念を抱き、

富士山そのものが神様である
と信じました。

 

富士山が世界遺産に登録された理由。

富士山が世界文化遺産に登録されている
理由とは何でしょう。

そこには、
「信仰」と「芸術」が深く関わってきた
歴史が記されています。
 

以下、文化庁の HP からの引用です。

 富士山は,標高3,776mの極めて秀麗な山容を持つ円錐成層火山で,南面の裾野は駿河湾の海浜にまで及び,山体の海面からの実質的な高さは世界的にも有数である。古くから噴火を繰り返したことから,霊山として多くの人々に畏敬され,日本を代表し象徴する「名山」として親しまれてきた。

 山を遙拝する山麓に社殿が建てられ,後に富士山本宮浅間大社や北口本宮浅間神社が成立しました。平安時代から中性にかけては修験の道場として繁栄したが,近世には江戸とその近郊に富士講が組織され,多くの民衆が富士禅定を目的として大規模な登拝活動を展開しました。

 このような日本独特の山岳民衆信仰に基づく登山の様式は現在でも命脈を保っており,特に夏季を中心として訪れる多くの登山客とともに,富士登山の特徴をなしています。また,『一遍聖絵』をはじめ,葛飾北斎による『富嶽三十六景』などの多くの絵画作品に描かれたほか,『万葉集』や『古今和歌集』などにも富士山を詠った多くの和歌が残されています。

 このように,富士山は一国の文化の基層を成す「名山」として世界的に著名であり,日本の最高峰を誇る秀麗な成層火山であるのみならず,信仰の対象と芸術の源泉として,また,文学の諸活動に関連する文化的景観として世界的な意義を持つことから,顕著な普遍的価値を持つと評価されました。

参照:BUNKACHO|文化庁

富士山の雄大さと優美さは
日本人の精神性を育み

普遍的な『美』の象徴であり続けています。
 

美しさとはなにか|人智を越えた『美』


自然界には

普遍的な『美』というものが
沢山あるように思います。
 

『美』は多様性に満ちていて、
自然界においては
ひとつとして同じ『美』に
出会うことはありません。
 

それでも私達は
溢れる自然の中で
様々な『美』を
瞬時に見つけることができます。
 

それを何故
『美しい』と感じるのかは
直感的な個人的な感覚であって、

理論的な説明としての答えは無い
と言ってもいいのかもしれません。

 

ただ、そこには
人知を超えた神業への
畏敬の念があるように私は感じます。
 

『出現』と『秩序』

 
美を感じさせるものが
目の前に『出現』したとき、
あるいは
ふと目を奪われたとき、
 

その『出現』を可能にしている
偉大な自然の秩序や法則
といったものの存在を

私たちは同時に
感じ取っているだと思います。
 

目には見えないけれど
偉大な自然の働きというものが
脈々と途切れることなく
私達に降り注いでいる事実を

私たちは思い出し、
改めて感動するのではないでしょうか。

 

それこそが
何者にも代え難い貴重な天からの恵み
であると確信したとき、

自然に手を合わせます。
 

人間は
はっきりとした理由を説明することは
できないまま
直感で『美』を感じるのかもしれませんが、

私達の生命を支えてくれている
生き生きとした自然の「秩序」を
『美』と表現したのではないでしょうか。
 

人が生み出す『美』。

自然の中だけでなく、
人間が生み出す『美』
というものもあります。
 

例えば、
文芸(言語芸術)、美術(造形芸術)、
音楽(音響芸術)、演劇・映画(総合芸術)
など

芸術における『美』です。
 

自然の美と同様に、
『出現』した作品を通して、
その、質の高い芸術をもたらした人の
『精神活動』の存在を
私たちは同時に垣間見ることになります。
 

完成された作品の「出現」を通して、
その崇高な精神性に深い感動と
敬意が生まれた時、

その作品は『美と成る』
のではないでしょうか。
 

豊かに花開く芸術活動としての『美』は、
崇高な精神活動を育む社会や時代
に支えられているのだと感じます。
 

美しさとはなにか|アンコールワットと『慈悲』


アンコール・ワットといえば、
死ぬまでに絶対行きたい場所ランキングで
いつも上位に輝く世界遺産です。

 

カンボジア北西部、
シュムリアップ市から
北へ 5 km ほど行ったところに
突如として現れる大寺院です。
 

ユネスコの世界遺産(文化遺産)である
アンコール遺跡群を代表する寺院で、
クメール建築の最高傑作と言われています。

 

アンコール・ワットの世界観。

 
アンコール・ワットは12 世紀前半に
ヒンドゥー教の霊廟(れいびょう)寺院
として造営され、
のちに仏教寺院ともなったそうです。

この偉大な建造物に込められたものとは
一体どのようなものなのでしょうか。

 

アンコールワットは
東アジアの仏教界に特に大きな影響を与えた
『 華厳の思想 』の世界を表現したもの
と考えられているようです。
 

華厳の哲学

華厳の思想で
強調されている世界観に
『一即一切』というものがあります。
 

この世界の一切の存在と現象は
相互に関連しあって成立しており、
決して他のものから隔離されて
存在しているものはない

という思想だそうです。
 

一つの個体は全体のなかにあり、
個体のなかにもまた全体を含んでいる
ということです。

個体と全体とは互いに即している、
とする考え方です。
 

アンコール・ワットは、
この世のすべての現象が
相互に融合して一体となった
調和の世界
を示しているとも言えるのでしょう。
 

調和の美」ですね。
 

大乗仏教の精神。

この考えは、
一人の個人の存在というものの意義
深く尊重するものです。

これは、たった一人の修行僧の存在が
縁のある全ての人を悟りに導くことができるという
大乗仏教の精神につながっています。
 

「私」という存在は
全宇宙の無限の相互作用の連続の産物として
「私」として現れたものであり、

決して「私以外の何物か」としては
現れなかったわけですが、
 

このことは、
「私」というものが見えない偉大な働きによって
必然的に現れたことを意味するとともに、

未来もまた自然と展開されていくものであることを
示唆しています。
 

同時に、
「私」という存在が、
この世のあらゆる存在に影響を与えている
と自覚することで、

「私」の生き方を自然と自律的なものに
導いてくれるものでもあります。
 

1人の個人の存在が、
陰に陽に、関わる全ての人を
穏やかに支えている
わけですね。
 

仏教の根本倫理。


華厳の思想では、
一切の存在を差別なく尊重するという
徹底的に包容主義の立場をとっています。

これは、
仏教の根本的な精神
ともいえるのではないでしょうか。
 

仏教には、
すべて平等に及ぼさねばならない
という精神があります。

それは、
『 慈悲 』という言葉で表されている
すべての人に対して
温かい心を持って接する心です。

 

『 慈 』とは「友」という意味から来る
慈しみの心で、

純粋な真の友情に由来する心情を
意味しているそうです。
 

『 悲 』とは
人が悲しんでいるときに
その心を同じくし、
自分のことのように悲しむ心です。
 

許されない愛?

私達が慈悲の心の
一端を知る体験は、

家族間の愛情であったり
深い友情であるかもしれません。
 

しかしそれは仏教の理想からすると
許されない愛でもあるようです。

自分の身にとって親しい間柄や
身近な存在に向ける愛情がある一方で、

自分に親しくないものや
自分から遠い存在のことに対しては
疎んじる傾向があることは
すぐに思い当たることです。
 

憎しみに転じる可能性のある愛は
『慈悲』の心には到達していないようです。

 

この『慈悲』の精神が
人間という対象を超えて、

一切の生きとし生けるものにまで及ぶことが
仏教の理想(悟りの境地)となるのでしょう。
 

理想を抱く人の美しさ。

感性的な愛情を超越して
すべての存在を
差別なく平等に尊重する精神がもたらす景色とは
一体どのようなものなのでしょう。

執着の心を離れて
『 慈悲 』の心の宿った人の姿とは
一体どのようなものなのでしょう。
 

アンコール・ワットが表す
荘厳な世界観と重なります。

アンコール・ワットという場所は、
理想の境地を求める人々の美しい心を
励まし導く場所なのかもしれません。
 

美しさとはなにか|「真善美」と「知情意」


昔、ある方に次のような言葉を
教えて頂きました。

「万事ご無理なきよう。
おだやか。おだやか。
ゆるやか。ゆるやか。」

 

その時の私は
そのように生きれたら
どんなに幸せなことだろう、
と思いました。
 

人生に無理はつきものだと
信じていたからです。
 

すでに上でご紹介した
人間の理想的な状態を表す格言として、
『真・善・美』
あるいは
『知・情・意』
といった三位一体の表現

頭のどこかで
ずっと引っかかったままでした。
 

『知徳一体』

『真・善・美』、『知・情・意』ー

3 つの言葉が並ぶのは
一体どういうことなのでしょうか。
 

上でご紹介した内容と重なりますが、
少し詳しく書いてみたいと思います。
 

もともと人間の働きというものは、
【肉体】と【精神】という
2つに分けて考えられていました。
 

その後、
古代ギリシアの哲学者ソクラテス
(Socrates, B.C.469-399)

の『知徳一体』という考えをはじめとして、

人間の【精神】の働きは
知(知識、学問)と 徳(善行、道徳)
の2つである
と考えられるようになったようです。
 

『知・情・意』

 
その後、
今から約 200 年前ごろには
ドイツの哲学者カント
(Immanuel Kant, 1724-1804)

などが、感情の働きを提唱しました。
 

そこから、
人間の精神の働きというのは
『知(知識)』
『情(感情)』
『意(道徳的善を行う意志)』
の 3 つに全て含まれており、

この 3 つの働きが統合されて
人間の精神の働きが完全となる
と考えられるようになったということでした。
 

『知・情・意』の
3 つの単語が並ぶ謎が一つ解けましたが、

これがそのまま
『真・善・美』の意味につながっていきます。
 

『真・善・美』

『真・善・美』というものは
『知・情・意』の働きが求めるもの
という関係にあります。
 

知(知識)の働きとは
真(真理、学問)によってもたらされ、

情(感情)の働きとは
美(芸術)によってもたらされ、

意(道徳的善を行う意志)の働きは
善(道徳、倫理学)によって
もたらされるものということです。

 

すなわち
『真・善・美』とは、

天地自然の秩序としての
永続的・普遍的な「真理」を
私達人間の心の「善」の基準にして

その善を実行する人の姿には
自然と「美」しさが現れるということを
示した言葉と言えるでしょう。
 

3 者が合致した人間の精神は
理想的な状態が実現されていることを
示しています。
 

『知徳一体』でなければ、自分で自分を傷つける。


様々な人間関係や社会的な関わりの中で
生きている私達にとって、

倫理的、道徳的な『善』の基準というものは
根本的な問題だと言えると思います。
 

あらゆるところで、
「善」を行う「意」志が問われています。

 

ですが、それは本来、
自分に無理を強いるものではないものです。

その根拠となるものが、
『知徳一体』の考え方です。
 

本来「道徳」というものは
ある時間的な制限の中や、
あるいは環境的な制限の中で
自分の思考を通してのみ導き出された
個人的な善の行為ではなく、

この世の天地自然の秩序が示す
長期的・永続的な真理を学び
そこから得られる「知」と一致する行為
であるということが説かれています。

 

私はこの考え方に触れたとき、
自分で自分に無理を強いているという
無意識に行っている矛盾を
知ることになりました。
 

精神と肉体。

たとえ崇高な【精神】を持っていても、
自分の【肉体】の維持と発展もまた
根本的な人生の課題であることを
私達は忘れてはなりません。
 

努力は惜しまない
という崇高な気持ちの裏側に

自分に無理を強いるという事実が
潜んでいることがあります。
 

ですが、
この世の秩序(自然の法則)が示す
「真理」としての「知」と
一致する道徳的行為の積み重ねが

自分の人格を形成することを知ってからは
自分の行いに唸るようになりました。

 

人格とは
自覚の上での行為の積み重ね
とも言えるのでしょう。
 

それからは、
『いまの努力は
永遠性を宿す秩序へと
つなげていけるだろうか?』

『本当に周りの人に安心してもらえるような
安定的な秩序を築く努力の方法は
他にないだろうか?』

と自問することになったのです。
 

崇高な心に従い人生を全うする勇気。

例えば、体調不良を押して
責任感と使命感に燃えて
努力を重ねることがあります。
 

そんな時、
「明日もまた、今日よりももっと
周りの方に喜んで頂けるように、
安心して頂けるように、

明日も万全の体調で過ごせるように
今日はこの辺で休ませて頂こう。」
と考え、

やりかけの仕事を途中で終えて
休息することは大変な勇気でもあります。
 

自分の働きを自分で守り、
周りの人にとっても
気持ちの良い存在でいられるように、

日々、穏やかに、緩やかに、
無理なく尽力する
ある種の勇気を携えていくこと。
 

遠回りに見えても、
それが結局は自分を生かす大きな力となる
と感じるようになりました。
 

この世でご縁のある人達に
できれば長期的に貢献できるような
温和な人格を作っていけたらと
思うようになりました。
 

豊かさの中で生きる。

私達は否応なしに
周囲の人達の中で作られています。

常に新しい自分が生みだされている
とも言えると思います。
 

「私が」と主張する時、
それは自分を支えてきた過去の自分
指しているのではないでしょうか。

 
陰に陽に
周囲の人達に支えられて
新しい今を生きていること、

この社会や人間関係というものが
自分の能力を圧倒的に超えた人生の豊かさを
日々もたらしてくれていること、

その中で過去の自分も
多様性を増して更新されていきます。
 

いつしか、
様々な環境において、

その環境そのものの
一部として動いている自分を

別人格のもう一人の自分
として感じるようになりました。
 

沢山の人格を持つ「私」という存在は
この豊かな社会の中で
「今日は誰かのお役に立ることが
できるのだろうか」
と考えてみたくなりました。
 

そんな時、
いつのまにか昔聞いた言葉が
自分を守る祈りの呪文のように
聞こえてきました。

「万事ご無理なきよう。
おだやか。おだやか。
ゆるやか。ゆるやか。」

 

美しさとはなにか|まとめ

  • 『美』という漢字は、豊かさの象徴としての「羊」の姿を表しています。
  • 『真・善・美』とは、天地自然の秩序である普遍的「真理」を基礎とした「善」の実行に宿る「美しい」人間の精神性を示しています。
  • 『真・善・美』の精神が「知・情・意」の働きにつながります。

 

NORi
最近感じた『美』は
どんなものがあったかなと
振り返ってみると

そこにはやはり
自分の価値観が滲み出ています。
 

そんな『美』は
自分の生命を支えている
とても根本的なものに
つながっているように感じます。