❷【プロセス】肌と呼吸と対話する|人物画という名の静かな「まなざし」
こんにちは、NORi です。
人物画は、最も難しいモチーフの一つです。それは単に形が複雑だからではありません。相手の眼差し、呼吸、その人が歩んできた時間という「形のないもの」を、水と絵具という揺らぎやすい素材で捉えようとするからです。
そこで今回は、技術的な工夫の先に、どうすればその人の「存在の瑞々しさ」を宿せるのか。私が白い紙に向き合う時の、心構えと工夫についてお話ししてみようと思います!
NORi
技術を凌駕する「情熱」の灯火

透明水彩で人物を描くことは、
時に残酷なほど難しいものです。
鉛筆のように消すことはできず、
水は常に流動し、
一瞬の隙も許してくれません。
透明水彩は
鉛筆デッサンや油彩画とは異なり
消しゴムで消したり上から塗り重ねて
修正することもできない上に、
流動的な水を使うということも
透明水彩の難しさに拍車をかけています。
『透明水彩で人物画を描きたい。』
この難しい課題に取り組もうと思う
その気持ち自体が大変素晴らしいこと
ではないでしょうか。
なんとしても
素晴らしい絵にしたいという情熱こそが
全ての技術を凌駕します。
私自身、
教室で指導をさせていただく中で、
初心の方が技術を飛び越えて
素晴らしい表現を見せる瞬間に
何度も立ち会ってきました。
こんな難しいモチーフを
描きたいと思うその気持ちが凄い!
と感動してしまうようなことが
結構たくさんあるのです。
そして
そのような難しいモチーフに
自発的に取り組む情熱があることが
何よりも技術の向上につながることは
言うまでもありません。
この情熱を消さないようにするのが
絵の先生の役割かもしれませんが、
教育という観点からすると
少し消極的かもしれませんね。
教育という場であるならば
さらに奥底にある情熱の火種を
見出し、引き出し、見守り育む
といった静かで粘り強い積極性を
密かに期待したいところ
ではないでしょうか。
自分の想いや希望をさらに超えた
まだ見ぬ境地があることを知ること、
その驚きや感動につき動かされて
新しい挑戦をすること、
そして、
自分ひとりでは辿り着けない
その新しい挑戦が実を結ぶ喜びに
教育の大きな価値があると思います。
教育の場において
情熱の火種を見守り育むことが重要であるように、
私自身が制作する際も
「まだ見ぬ境地への憧れ」を静かに見守ることを
大切にしています。
自分一人では辿り着けない、
水と紙が起こす奇跡に身を委ねる喜び。
人物画は、
その喜びが最も甘美に現れる場所かもしせません。
それでは
始めていきたいと思います!
色選びの工夫|肌の色は「光の翻訳」

まずは色選びについて
考えていきたいと思います。
人物画で考えなくてはならないのが
肌の色です。
男性か女性か?
室内か屋外か?
日陰が日向か?
このような条件によって
選ぶ絵の具の色や
塗る時の色の濃さ
塗り方などが変わってきます。
ですが、
このような『条件』から
もう一歩深めてみると、
肌の色というのは
その人自身が放つ『内なる光』と、
外から当たる『光の種類』が織りなす
複雑な『自然の法則:理(ことわり)』の結果です。
人物画の核となる肌の色は、
性別や場所といった「条件」だけで
決まるものではありません。
私は、
肌の色を以下の3つの層として捉えています。
- 基本の肌色(ベース): その人の存在を形作る基調
- 明るい部分(ハイライト): 生命が最も光を反射する瞬間
- 暗い部分(陰影): 存在に奥行きと静寂を与える影
この基本色、ハイライト、陰影という
3段階の色の変化を、
『いかにして目の前の光景を忠実に翻訳するか』
という問いとして捉えます。
もちろん1色の絵の具の色の濃淡で
この3段階の色の変化を当てはめても
立体感か表現できますが、
それでも単なる色の濃淡ではなく、
その人を取り巻く空気までも写し取るための
誠実な観察の記録という視点で色を選びます。
構図の工夫|対象と心を通わせる「角度」

人物画を描く際の構図については
人物の向きがリアルな表現のための
難易度に大きく関わって来ます。
正面を向いている以外に
横向き・後ろ向き等も考えられますね。
人を遠目で見たときの
シルエットからも分かるように
正面あるいは後ろ向きよりも
横向きの方が人の顔の特徴は
捉えやすいです。
また
完全に横向きよりは
手前側に少し顔が見える
やや斜め前を向いた角度が
顔の立体感や奥行き、表情なども
より捉えやすくなると考えられます。
このように
伝わりやすい構図を選ぶのも
リアルな人物画を目指すための
一つの工夫と言えそうです。
さらに顔の立体感や表情などを
よりリアルに表現するには、
顔のパーツの位置関係だけでなく
顔の筋肉などの凹凸の特徴を
観察することが大切です。
この観察をもう一歩深めてみると、
人物画における『構図』は、
描き手と対象との『対話の角度』
とも言えます。
正面や後ろ向きよりも
やや斜め前を向いた角度が捉えやすいのは、
顔の立体感や奥行きだけでなく
その人の意志や情感、
つまり『物語』が最も豊かに見えるからです。
顔の筋肉のわずかな凹凸は、
その人が生きてきた証。
それを丹念に観察することで、
絵の中のその人物に
少しずつ命が宿っていくのだと思います。
塗り分けの工夫|命の輪郭を浮き彫りにする

絵の「リアルさ」は色彩の鮮やかさではなく
陰影(明度)の的確さ
で決まります。
例えば
色彩のないモノクロ写真であっても
白黒グレーの変化によって
しっかりとリアルな人物像が
見て取れることからも分かります。
モノクロ写真が雄弁に人物像を語るように、
光と影の理こそが、命の形を浮き彫りにします。
つまり
特徴的な陰影を適切な明度で表現することが
リアルさの決め手の一つと言えます。
陰影(カゲ)の出来かたをよく見ると
明るいところとの境界が
ハッキリとシャープに見える場合と
(鼻の横の影など)
明るいところから徐々に
なだらかなグラデーションを伴って
暗くなっていく場合とがあります。
(頬っぺたの丸みに沿った陰など)
これらの陰影の出来方の違いを
異なる塗り方で表現できると
よりリアルな描写に近づけることが
できそうです。
- シャープな境界の境界: 鼻の横など、光が遮られる場所に見える強い影。その人の個性や存在感が際立ちます。
- なだらかなグラデーション: 頬の丸みに沿った柔らかな影。こちらは移ろいゆく感情の機微の表現につながります。
これらの陰影の違いを異なる塗り方で表現することは、
単なる技法ではなく、
その人の持つ複雑で豊かな『生』を肯定するための試みです。
実践編|光と影を使い分ける

透明水彩の人物画 by NORi
ここからは具体的に、
私の二つの作品を使って
解説していきたいと思います。
上の2枚の人物画は私の作品ですが、
ともに屋外の風景で
明るい日差しの中で
花を摘む女性と
花に水をあげている
男性の絵を描きました。
人物画をよりリアルに描くために
工夫できるポイントとして、
以下の3点について
これまでお話しをしてきました。
- 色選びの工夫
- 構図の工夫
- 塗り分けの工夫
それぞれの工夫の効果を
上の2枚の作品を使って
見ていきたいと思います。
実践編:色選びの工夫

透明水彩の人物画 by NORi
上の女性の作品では
日差しの中に溶ける透明感がテーマです。
女性の肌を表現するために
5段階の色の変化を考えました。
- ジョーンブリヤンNo.2(基本の肌色)
- 紙の白を活かす(ハイライト)
- シェルピンク(赤み)
- パーマネントイエローライト(明るいカゲ)
- サップグリーン(暗めのカゲ)
絵の具を水で薄めて
全体的に明度の高い
白っぽい色でまとめています。
日差しの中に溶け込むような女性の肌には、
あえて影にブルーを使いませんでした。
強すぎる対比は、
この女性が纏う柔らかな空気を壊してしまうからです。
代わりに選んだのは、
光を孕んだようなサップグリーン。
この微かな緑が、
女性の肌に流れる生命の瑞々しさを
より自然に引き立ててくれます。
それから
美しい肌の印象を作るために
頬、目元、口元、耳などに
ピンク色をアクセントに加えました。
肌に自然な赤みがあると
一気に華やかで健康的な肌が表現できます。

透明水彩の人物画 by NORi
こちらの作品のテーマは
日焼けした生命の力強さです
男性の肌には
6段階の色を設定しました。
- ローシェンナ(基本の肌色)
- ジョーンブリヤンNo.2(ハイライト)
- アリザリンクリムソン(赤み)
- パーマネントイエローライト(明るいカゲ)
- アリザリンクリムソン(やや明るいカゲ)
- 混色で作った紫色(暗めのカゲ)
陽光の下で活動する男性の肌には、
日焼けした力強さを宿した
ローシェンナをベースとして選びました。
影には
熱を持った紫を置きました。
重なり合う色が、
男性のこれまでの人生の歩みや
力強さを感じさせる奥行きを生み出します。
2枚の絵を見比べてみると
肌の色の選び方によって
絵から受ける印象はずいぶんと
変わって来ますね。
実践編:構図の工夫

透明水彩の人物画 by NORi
今回の作品例では共に
顔の表情や奥行き、立体感の感じられる
斜め横を向いた構図にしました。
横を向いた女性の静かな横顔からは、
独り静かに花と語らう柔らかな時間が。
少しこちらを向いた男性の表情からは、
外の世界へと向かうエネルギーが伝わってきます。
顔の角度一つで、
その人の物語はこれほどまでに変わります。
構図とは、
対象の『心』をどの角度から見守るかという
描き手の決意でもあります。
また
体の向きや腕の形を工夫することで
動きの感じられる構図になるかなと思います。
実践編:塗り分けの工夫

透明水彩の人物画 by NORi
この作品では
女性の額から頬にかけて
直接光が当たっている様子を
表現しています。
光の当たった部分は
色を塗らずに
もともとの紙の白さを
塗り残しています。
白く塗り残した部分と
隣り合った肌の色との境界を
はっきりとさせるように塗ることで
光の強さが感じられるかと思います。
一方で
光が直接当たらない耳やあごには
できるだけぼかしながら
様々な色が滑らかに変化するように
見せています。
このような塗り分けをすることで
顔の立体感や肌本来の発色を
自然な雰囲気で表現しつつ
光が当たった明るさを
強調することができます。

透明水彩の人物画 by NORi
こちらの作品では
明るい日差しが背後から頬にかけて
当たっています。
日差しによってできる
強いカゲを演出するために
こめかみから耳の手前、あごや背中にかけて
はっきりと影の形を残して塗りました。
人物の肌に補色(カゲ)を置くのは、
補色対比によって肌の彩度をより際立たせる
視覚的効果を狙うためでもあります。
また、
ところどころ光が当たった髪を
白く塗り残して目立たせました。
これらの工夫によって
日差しの強さと
視線を集めるポイントを
作っています。
一方で
光から少し離れた頬のあたりは
ぼかしによって徐々に顔の前面の
肌の色につながるように塗りました。
帽子の下のひたいの部分にも
さりげなく奥行きが出るように
ぼかしで暗い色を塗っています。
以上のように
細かく塗り分ける工夫が
ところどころに見られることで、
全体としてよりリアルな雰囲気へと
底上げされていく効果が
感じられるかなと思います。
このような細やかな塗り分けを
意図的に表現するためには、
自分にとっての効果的な絵の大きさ
というのも検討する価値がありそうです。
あまり小さいサイズでの人物画は
細かいぼかしが綺麗に出来なかったりして
リアルな表現は難しくなりそうです。
自分が目指したい表現に
余裕を持って取り組める絵のサイズを
自分の技術力を基準に選ぶ必要があります。
自分がコントロールできるサイズを選ぶことは、
対象の命を等身大で受け止めるための
『謙虚さ』でもあります。
描き急がず、
水と絵具が紙の上で落ち着くのを待てる。
そんな心の余裕が、
人物の息遣いを写し取ります。
実践編:色塗り動画

透明水彩の人物画 by NORi
男性の作品の方につきましては
色塗りの様子を動画にまとめました。
(動画再生時間:1分47秒)
※音楽が鳴りますので、音量の調整をしてご覧ください。
『 生物海洋学者の休日 』〈透明水彩〉by NORi
序盤は全体に明るい色から始まり、
少しずつ濃い色、
細かい描写へと移っています。
徐々に色が重なっていく過程で、
ただの絵具の染みが
一人の人間の「存在」へと
絵の表現もよりリアルに
近づいていくのが分かります。
透明水彩と人物画|まとめ

透明水彩の人物画 by NORi
- 肌の色選びは、その人の生命感への返答です。
- 斜め前の構図は、心を通わせるための最適な距離を感じさせます。
- 陰影の塗り分けは、存在の奥行きへの敬意です。
人物画は、自分が描きたいと思った理由が自然とにじみ出るモチーフだと実感します。その絵を見た人が、描かれた人の温度や、あなたの抱いた慈しみを感じ取ってくれたとしたら。それは、技術を超えて「命の理(ことわり)」が伝わった瞬間ではないでしょうか。
ですが、どれほど細やかに塗り分け、光を塗り残そうと試みても、それをすべて受け止めてくれる「強靭な舞台」がなければ、透明水彩の魔法は途切れてしまいます。特に人物画のように、色を濁らせずに肌に幾層もの美しい色を重ね、水を操り、光を刻むには、絶対的な信頼を置く「紙」が必要です。
▶︎ 「【道具】500号までのサイズ一覧とアルシュ水彩紙|500年の歴史が支える、描くことの「信頼」」では、私の制作の土台であり、表現の聖域とも言える「アルシュ水彩紙」についてお話ししています。
NORi